2011年08月09日

関ケ原東西武将隊 武将紹介

関ケ原合戦参戦武将の中から、東西両軍を代表する6人の武将、西軍の石田三成・島左近・大谷吉継、東軍の徳川家康・本多忠勝・井伊直政により、関ケ原東西武将隊を結成しました。
マイ甲冑武者や関ケ原ボランティア隊の皆さんとも連携し、メンバーをふやしていきたいと思います。
また、一般参加の皆さんも、関ケ原東西武将隊の立派なメンバーです。ぜひご参加ください。

西軍
石田三成
石田三成/永禄3(1560)年〜慶長5(1600)年/近江佐和山19万4000石

近江坂田郡石田村の出身。
長浜時代の羽柴秀吉に出仕し、側近として頭角を現す。
五奉行一の実力者として活躍。秀吉死後、徳川家康の野望を阻止せんと挙兵し、毛利輝元を西軍総大将に迎える。
関ケ原では兵6000で笹尾山に本陣を構え、秘密兵器の大筒を設置して万全の迎撃態勢を布く。



島左近/?年〜慶長5(1600)?年/石田三成重臣

知勇兼備の武将。
はじめ筒井順慶・定次に仕え、次いで豊臣秀長・秀保に仕える。浪人となって近江に隠棲するが、三成に高禄で迎えられた。
関ケ原合戦では大垣城に進出し、杭瀬川の戦いで東軍の中村一栄らを撃破。関ケ原でも石田隊前衛として黒田隊を押し込み、東軍の心胆を寒からしめる。
島左近


大谷吉継
大谷吉継/永禄2(1559)年〜慶長5(1600)年/越前敦賀5万石

秀吉に「百万の兵の采配をとらせたい」といわしめた軍略家。
長浜時代の秀吉に出仕し、賤ヶ岳合戦では七本槍に次ぐ戦功をあげる。九州の陣では三成とともに兵站奉行。
関ケ原では三成の挙兵を諌めるが、のちに三成との友誼に殉じる覚悟で参戦、中山道を固めて小早川の裏切りに備える。

東軍

徳川家康/天文11(1542)年〜元和2(1616)年/武蔵江戸255万7000石

三河岡崎城で生まれる。
今川義元の人質として育ち、桶狭間の戦い後に自立、織田信長と清須同盟を結ぶ。信長没後は秀吉と小牧長久手で戦うが和睦して臣従、北条氏滅亡後は関八州に移封となり、五大老筆頭となる。
秀吉没後は権謀術数の限りを尽くして天下をねらい、関ケ原合戦へと導いた。
徳川家康


本多忠勝
本多忠勝/天文17(1548)年〜慶長15(1610)年/上総大多喜10万石

徳川四天王の1人。平八郎。
初陣は桶狭間の戦いでの大高城兵糧入れ。以来、三方ケ原の戦い・長篠の戦いほか五十七度の戦いに出陣し、かすり傷一つ受けなかったといわれる。
家康の関東移封時に上総大多喜を与えられ、関ケ原合戦では東軍の軍監として参加。名槍・蜻蛉切の持ち主としても有名。



井伊直政/永禄4(1561)年〜慶長7(1602)年/上野高崎12万石

徳川四天王の1人。万千代。
14歳のときに家康に仕える。本能寺の変の後、旧武田軍団の120余名が配下に加えられ、甲冑を全て赤で統一、以来「井伊の赤備え」と呼ばれるようになった。
小牧長久手の戦いで活躍。関ケ原では女婿である家康四男・忠吉とともに最前線に進み、抜け駆けをねらう。
井伊直政
posted by 関ケ原東西武将隊, at 10:27 | category: 武将紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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